かつて八幡町と本町はそれぞれ幡街、本街と呼ばれる花街であり、八幡町の幡街芸妓と本町の本街芸妓は、ともに芸を競い合ったといわれている。それぞれの町には、「函番」と呼ばれる管理事務所があり、芸妓に口のかかった時の取次や玉代(料金)の精算をするほか、芸妓の三味線箱を預かっておき、指名された芸妓の三味線箱を料亭まで届ける役割もあった。
盛岡芸妓の芸は明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて盛岡に滞在した常盤津の名人、常盤津林中の稽古によって磨きがかかり、大正2年(1913年)の旧盛岡劇場完成を機に、盛岡芸妓の芸は広く市民に公開されるようになった。さらに、芸妓として芸を磨き伝統を守ったことにより、昭和36年(1961年)には福子、昭和49年(1974年)には都多丸が盛岡市市勢振興功労者として表彰された。盛岡芸妓の伝統ある芸と品格は、現在でも脈々と受け継がれている。